ヒトラーの子供たち レーベンスボルン出身者の天国と地獄

レーベンスボルンは、ナチ親衛隊(SS)が設置した福祉機関です。よりアーリア人らしいドイツ民族の人口増加を目的としていました。しばしば「生命の泉」「赤ちゃん工場」と訳されます。

 

ところでナチスが追い求めたアーリア人って、具体的にどういうものかわかりますか?
多くの日本人は白人らしい白人程度の認識しかないのではないかと思います。

 

現在の研究によると、アーリア人というのは古代ペルシア、現在のイランのあたりに住んでいた民だそうです。

このアーリア人があちこちの地域に移動していき
南部に行ったものはインド人の一部、
北部に行ったものはスラブ族(ロシア)、
さらに北部に行ったものは北欧に近いバルト系民族(リトアニアなど)、
西部に行ったものはケルト人(イギリス)になったと考えられているそうです。

コーカソイド人種の祖のひとつのような存在でしょうか?

 

しかし、ナチス時代の人々が考えたアーリア人は上記のものとは少し別のものでした。
彼らはアーリア人をイギリス東部~北海沿岸~北欧に住む金髪碧眼の民族の祖のような存在と考えていたようです。ナチスの指していたアーリア人は、実際のアーリア人よりチュートン人のほうが当てはまるのではないかといわれています。
チュートン人とは青銅器時代後期に今のデンマーク中心に居住していた部族のことで、古代ゲルマン人ともいわれます。

19世紀のヨーロッパの学者たちは北欧系民族(Nordic)をアーリア人またはチュートン人、インドヨーロッパ語族と呼ぶことを好んだそうです。また北欧系民族とは主にケルト人とドイツ人であるとする学者もいました。彼らの意見がナチスに影響を与えたと考えられています。

 

さて、ヒストリーチャンネルで放送された英語圏製作のドキュメンタリー番組によると、ナチスは彼らがアーリア人らしいと信じる金髪碧眼の男女の性交渉を奨励していました。

 

結婚だけではありません。こうした選ばれた若者たちの間で、しばしば乱交のようなことを行わせ、女性が妊娠するとレーベンスボルンで子供を産ませる。
生まれた子供はナチスの施設が引き取り、女性にまた次の子供を産むことを促す・・・。

 

このようにナチスは(彼らが考える)アーリア人らしい遺伝子を持つと判断した者同士なら、婚外子の誕生も奨励していました。

父を持たないこうした子供たちは「ヒトラー総統の子」と呼ばれたそうです。

 

それでも子供が足りないと思っていたのか、ナチスはポーランドなどから金髪碧眼の子供を誘拐したりまでしていました。

 

・・・こうしてエリートになるべく期待された子供たちの多くが、ナチス敗戦後、あまり幸運に恵まれなかったことは、よく知られています。

 

調査の結果、レーベンスボルン出身者の自殺率は一般の20倍に上るそうです。また、アルコールやドラッグ、犯罪に走る率も高いとされています。

 

それでも、子供たちの数は膨大です。不幸で恐ろしい話だけでなく、数奇な運命の物語も珍しくありません。

 

ナチスの血に容赦なかった国 ノルウェー

レーベンスボルン出の子供たちが最も過酷な運命をたどった国は、ノルウェーです

ナチスがノルウェーを占領した際、14000人もの女性が拘束されました。その後、5000人にのぼる女性がドイツ兵との間に子供を産んだといわれています。

当時の多人種国家アメリカにならったナチスの人種ランク付け基準において、ノルウェー人は進化にふさわしい優秀な支配民族とされていました。
(参考記事:「アメリカのナチズム!日本人仰天な米国の黒歴史」)

そのため、未来のドイツ人にふさわしい子供を増やそうと、多くのドイツ兵とノルウェー女性の「交配」が行われました。

生まれた子供たちの多くは母親から引きはがされ、ナチスの養育施設に移送されました。
現在でもノルウェーには自分が生んだ子がどこに行ったかわからない80歳過ぎの女性たちがいるといいます。

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第二次世界大戦の終了後、ノルウェーの人たちのナチスへの憎しみと恨みは、そうして生まれた子供たちに向けられました。

ノルウェーの人々はしばしば、ドイツ人を父に持つという理由だけで子供たちを精神病院に送りました。
彼らはドイツ人のもつナチスの遺伝子を危険視し、ファシストを再び作りだす可能性があると考えたのです。

そうして精神病院に送られた子供たちが精神病患者たちから性的虐待を受けたという記録、訴えはとても多いそうです。事件の加害者の一人は、その理由について、ドイツ人を父に持つ罪を浄化してやったのだと答えたという記録もあります。

ドイツ軍パイロットとノルウェー女性の間に生まれたポール・ハンセン氏(Paul Hansen)は現在、ノルウェー大学の清掃夫をしています。彼は3歳から7年間、精神病院で育ちました。精神病患者たちと食事もトイレも一緒の一つの部屋に押し込められていたそうです。

アンナマリー・グルーデさん(Anne-Marie Grube)もまた、とある施設の一室に閉じ込められ育ったといいます。その部屋を訪れる人は誰もなく、誰も彼女と関わろうとしませんでした。ただ食事と服という、死なない程度のものが与えられただけだったそうです。

なんだか幽閉されたマリー・アントワネットの息子の逸話を思い出しますね。

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母親から引き離されなくても、悲惨な生い立ちになった人もいます。

「自分の生まれながらの汚名と恥辱はあまりに強烈すぎて、立ち直るまで50年もかかりました」

ドイツ兵を父にもつゲルド氏(Gerd)はそう語ります。

彼の母親は、戦後、レジスタンス活動をしていたノルウェー人と結婚しました。ドイツを憎む義父に、彼はひどい暴力を受けて育ったといいます。

1942年生まれのハリエット・フォン・ニッケルさん(Harriet von Nickel)はナチスの敗戦後、犬と一緒に庭に鎖でつながれるようになりました。

6歳のときには、同じ村の人に川に突き落とされました。

「魔女がおぼれるか水に浮かぶか見たかった」

突き落とした人物は、理由をそう答えたそうです。

また学校においても、クラスの皆の前でこのような子供に性的虐待を行うような教師もいたそうです。

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こうした虐待の話は遠い過去の出来事でもあります。レーベンスボルン生まれの子供たちはみな、すでに老人です。

しかし、そうなった後でもノルウェー政府は彼らを忌み嫌い、オーストラリアに捨て去る計画さえ立てたことがあるそうです。驚きですね。

あまりに過酷な運命をたどってきたノルウェーのレーベンスボルン出身者たち。中にはノルウェー政府に対してヨーロッパ人権裁判所に訴訟を起こしたグループもあります。
結果、彼らはいくらかの補償金を得ることに成功したそうです。

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それにしても、幼児を一人監禁したり、犬と一緒に鎖でつないだり、老いた後でさえ国策で国外に送りつけようとするとか・・・いくら敵国人の血を引く子といえ、苛烈ですね。

私たち東アジア人の感覚だと、ちょっとついていけないかも?

 

巡り合えた父は億万長者!でも・・・

ドイツで育ったレーベンスボルンの子供たちもまた、育ての親やクラスメイトに迫害された経験を訴える人がいます。

それでも、ドイツの子供たちを取り巻く環境は、ノルウェーほど過酷ではなかったようです。

ドイツ国内では敗戦後、長いこと、ナチスの犯罪について詳しく報道されることはありませんでした。東西ドイツに引き裂かれていた状況では、過去を検証する余裕などなかったのかもしれません。
レーベンスボルンの実態が世間に知れ渡ったのも、かなり年月が経ってからだそうです。

 

ヘルガ・カーラウさん(Helga Kahrau)の母親マチルダは、かつてヒトラーの護衛隊員やナチス広告部長などの秘書をしていたといいます。しかし彼女はそれ以上、娘に戦時のことを話したがりませんでした。

93年に母が死ぬとヘルガさんは自分の家族のことを調べはじめました。そして父がナチスの軍人であったこと、父と母がお互いに知らない者同士だったこと、自分が生命の泉計画によって生まれたことを知ったのです。

ヘルガさんの両親が出会ったのはヒトラーのフランス占領を祝うパーティでした。その晩、かりそめの関係を結び、9カ月後、母はレーベンスボルンで私生児としてヘルガさんを産んだのでした。

・・・ヘルガさんにとって、恐ろしい出生の秘密でした。

その翌年、ヘルガさんのもとに、父と名乗る男性から電話がかかってきました。

「どうして53年もたってから電話してきたの?」

尋ねるヘルガさんに、父は自分がもう80歳を超えており、不治の病で余命わずかなのだと告げました。そして最近になって戦争中にもうけた娘であるヘルガさんのことをよく考えるようになったというのです。

ヘルガさんは翌日、彼に会いに行きました。

父親はとても魅力的な人で、彼女はすぐに気に入りました。
父はヘルガさんの母親のこと、占領下のパリでの任務のこと、そして戦後に築いた資産のことを彼女に語りました。―――彼は億万長者になっていたのです。

父の病状が悪化するとヘルガさんは献身的に世話をしました。遺産のいくらかをもらえるのではないかと期待したのです。

しかし、彼女は法律上の娘ではなかったので、結局なにももらえませんでした。

ノルウェーと違い、ドイツではレーベンスボルン出身の人たちが受けとれる補償やサポートグループなどはないそうです。

 

2006年、ハルツ・レーベンスボルンの跡地で、レーベンスボルン出身者たちの集会があり、40名ほどが集まりました。
ハルツ・レーベンスボルンは当時、1100人以上の赤ん坊を世に出したとされる施設です。

出席したヘルガさんは、こう語りました。

「レーベンスボルン生まれの子供であるということは、いまだに恥です。この恥はヒトラーの悪魔のようなゲームの苦々しい遺産なのです」

 

恵まれたナチス支持者の息子の正体は・・・

一方、何不自由のない生活を送っていた人が、突然、自分が生命の泉計画の一部だったと知ったケースもあります。

フォルカー・ハイネッケ氏(Folker Heinecke)の両親は、狂信的なナチス支持者でした。ナチス幹部、ヒムラーを自宅に招くこともあったほどでした。
商船会社を経営しており、生活は恵まれていました。第二次世界大戦の戦争の被害もわずかでした。

フォルカー氏自身、自分の人生の安定を疑ったことはありませんでした。連合軍のドイツへの攻撃を幼心に面白いとさえ思っていたといいます。

彼は家業を継ぐことを期待され、大切に育てられました。
幼いころ、近所の子供から自分と両親は本当の親子でないとからかわれたことがありました。しかし幸福な生活を送る彼は、深く疑問に感じることもなく、両親を信じて成長しました。70年代に両親を相次いで亡くしたときはショックで荒んでしまったほどでした。

その後、フォルカー氏は亡くなった父のファイルから自分が養子縁組されてきたことを証明する資料を見つけました。そして、それらをたどるうち、自分の正体が当時のソ連領クリミアからドイツ軍によって連れ去られた子供、アレクサンダーだと知ったのです。

ナチスがアーリア的な容貌の国民を増やすため、ポーランドなどから金髪碧眼の子供をさらっていたのはよく知られています。アレクサンダーもそうした理由で誘拐され、ドイツの施設に送られたのです。その後、熱狂的なナチス支持者の夫婦の養子にされたのでした。

真実を知ったフォルカー氏もといアレクサンダーは実の両親を探しにクリミアを訪れました。そして、かつて彼の両親が住んでいた家を見つけることができました。
しかし、彼らの手がかりや、彼らの墓がどこにあるかはわかりませんでした。

1940年生まれのフォルカー氏はこう語ります。

「私が望むことは両親の墓を見つけることだけです。私は私の両親がどんな人であったか、どこに埋められているかわかるものを探し続けなくてはなりません。そのとき、私は息子としての義務を果たし、本当の両親に敬意を表したことになるのでしょう」


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https://redice.tv/news/norway-s-hiddens-history-aryan-children-subjected-to-lsd-experiments-sexual-abuse-and-mass-rape
http://www.dailymail.co.uk/news/article-1111170/Stolen-Nazis-The-tragic-tale-12-000-blue-eyed-blond-children-taken-SS-create-Aryan-super-race.html
http://europe.newsweek.com/hitlers-children-156465?rm=eu
http://creation.com/hitlers-master-race-children-haunted-by-their-past

 
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